創立まで(~1922)

創立者 根津 嘉一郎

渡米実業団

渡米実業団
日露戦争によって生じた日米間の対立を和らげるため、日米両国の実業界は民間の立場からの協力として、実業団の相互訪問を行った。まず、1908年10月に日本が米国太平洋沿岸の実業家を招き、次いで1909年8月米国実業界の招待を受けて、当時の日本財界を代表する一人であった渋沢栄一を団長とする総勢 51名の実業団が渡米した。メンバーの中核をなす15名の一人として、49歳にして既に卓抜の起業家・経営者と認められていた根津嘉一郎も選ばれていた。

公共事業の志

渡米実業団で全米53市を歴訪した根津は、後日、「彼の国にありては資産家と称せらるる者が何れも巨額の私財を投じて公共事業に力を尽くしつつある実情を視察いたしまして、深くその美風に感じ自分も微力ながら一日も早く社会の為に尽くしたいと云う念慮を強めた」と述べている。
そして、かねてから事業上密接な関係を保ち、かつ人として相信じあう間柄の宮島清次郎、正田貞一郎両人に胸中を打ち明け、以後、3人は折にふれてこの公共事業の具体化についての相談を繰り返していた。

宮島清次郎

正田貞一郎

正田貞一郎
高等商業学校本科(後の東京高等商業学校)卒業。
1924年日清製粉社長。1942年東武鉄道会長。
1946年貴族院議員に勅選される。なお、美智子皇后の祖父にあたる。
  • 正田 貞一郎

    (しょうだ ていいちろう 号・痴山)
    明治3(1870).2.28-昭和36(1961).11.9

    群馬県館林の正田作次郎の長男として横浜で出生。明治6年正田家醤油醸造業を始む。24年高等商業学校本科卒業、醤油醸造業に従事。30年館林実業談話会を創立。33年館林製粉設立し専務取締役。40年旧日清製粉を合併。大正2年海外の製粉事情視察のため初の外遊に出る。13年日清製粉社長。昭和4年アメリカ、カナダの製粉業を視察、オリエンタル酵母工業を設立。5年製粉販売組合を組織。6年日本栄養食料を設立。9年日本篩絹を設立。11年日清製紙を設立、朝鮮製粉を設立、以後中国(東北部・河北)に進出、日清製粉会長。15年中外興業を設立。16年財団法人農産化学研究会を設立。17年東武鉄道会長。18年社団法人如水会理事長。21年貴族院議員に勅選さる。30年太平食品を設立。

    大正10年-昭和36年根津育英会理事。根津嘉一郎の友人として宮島清次郎と共に武蔵高等学校の創設に尽力し、根津嘉一郎の亡き後も理事として武蔵高等学校・武蔵大学の発展に力を尽くした。美智子皇后の祖父にあたる。

七年制高等学校制度

第一次世界大戦の終結を目前にして、日本社会の国際的立場は大きく変化し、これに即して高等教育の拡大・充実が差し迫った国家的要望となっていた。 1917年(大正6年)設置された「臨時教育会議」において、帝国大学以外に官・公・私立大学設置を認めること、また、前期高等教育の担い手を、国立の高等学校・高等専門学校のみでなく、公立・私立にも拡げる方針が実現した。
1918年新たに公布された高等学校令では、高等学校は尋常科4年、高等科3年を本則とし、高等科のみ置くこともできるとされた。しかし、七年制高等学校の実現にはまだ時間を要することとなった。

本間則忠の勧説

本間則忠
訪米見聞により公共事業の構想を練っていた根津が別府温泉で休養中の1915年12月、当時大分県理事官であった本間則忠が訪れた。本間はかねてからフランスのリセ、ドイツのギムナジウムのような「社会の中核となる人材を育てる」ことを眼目とする学校の創設について夢を抱いており、根津訪問の目的は、いずれ実現するはずの中高等教育を一貫する新制度高等学校創設に根津の力を発揮して欲しいという「熱誠なる勧め」であった。これに対し、根津も「全ク我意ヲ得タリ」と応じたという。
  • 本間 則忠

    (ほんま のりただ)
    慶応元(1865).8.25-昭和13(1938).10.10

    山形県出身。明治31年東京高等師範学校理科卒業、長崎県師範学校教諭。35年文部省普通学務局第一課長。38年島根県事務官。39年島根県松江市に下女学校を開校(子守女、給仕女等の教育)。41年山梨県事務官。43年鳥取県事務官。大正3年大分県理事官。7年栃木県理事官、視学官。8年文部省事務官。

    武蔵高等学校の創立を根津嘉一郎に働きかけ、自ら財団法人根津育英会、武蔵高等学校の設立事務全般にわたり責任者となり尽力した。また、『根津家育英事業』、『学校法人根津育英会』、『本校創立事情記録』等の資料を残した。大正10年-昭和3年根津育英会理事。

    大正13年富士見高等女学校(北豊島郡中新井村字中)の設立認可を受け、同年4月に修業年限4年の高等女学校として開校した。9月文部省依願免官。13年10月-昭和3年富士見高等女学校初代校長となる。根津嘉一郎、宮島清次郎、正田貞一郎、一木喜徳郎の名が当時の富士見高等女学校の後援者として資料に記録されている(『山崎学園五十年史』)。

子爵平田東助の助言

根津、宮島、正田、本間の間で教育事業創設に関し考えが一致したところで、臨時教育会議総裁平田東助子爵の助言を仰ぐこととし、これを受けて平田は同会議における改革促進派であった一木喜徳郎(枢密顧問官)、岡田良平(文部大臣)および山川健次郎(東京帝国大学総長)、北条時敬(学習院長)の4名を顧問役として推挙した。以降、根津を中心としたこれらの人々がその後学校創立に至る約2年半の間、繰り返し協議を継続していった。
制度として認められた七年制高等学校の具体策がまだ混沌としたなか、一足早く根津嘉一郎の構想は着々と具体化され、1919年末には設立すべき学校として、「優秀ナル小学校卒業者ヲ入学セシメ、之ニ理想的ノ教育ヲ施シ完全ナル育成ヲ期スルヲ目的ト為スガ故ニ、出来ウル限リ長期ニ亙リテ在学セシムルヲ必要トスル」(一木喜徳郎)ところから、七年制高等学校とすることに決定した。

平田東助

平田東助
大学南高、ロシア留学を経て、1875年にドイツのハイデルベルグ大学で学位取得。帰国して内務省に入り、1890年貴族院議員、1902年男爵、 1911年子爵。1917年臨時教育会議総裁。1922年内大臣、伯爵。
  • 平田 東助

    (ひらた とうすけ 号・西涯)
    嘉永2(1849).3.3-大正14(1925).4.14

    山形県米沢藩の医官伊東昇廸の二男として出生。安政3年平田家の養子となる。明治2年大学南校に入る。4年ヨーロッパ使節団の一員としてアメリカ経由でヨーロッパ留学の途にのぼる。5年英仏をへてベルリンに至りロシア留学をドイツ留学に変更、この時ドイツ信用組合の発展に関心をもつ。6年ベルリン大学入学。8年ハイデルベルグ大学で学位を受ける。9年帰国、内務省御用掛。10年大蔵省御用掛。12年P・マイエットを顧問として火災保険取調掛を大蔵省に置き、その委員となる。16年太政官文書局長。18年法制局参事官。20年法制局部長。23年貴族院議員。31年法制局長官兼内閣恩給局長、枢密顧問官。33年「産業組合法案」成立に力を尽す。34年農商務大臣。35年男爵。37年産業組合中央会会頭となり産業組合運動の中心人物として活躍。41年法学博士、内務大臣。44年子爵。大正5年学習院評議会会員。6年臨時教育会議総裁として、明治30年代からの懸案であった「学制改革問題」の決着に尽力した。11年内大臣、伯爵。

    大正10年-13年根津育英会顧問。

一木喜徳郎

岡田良平

岡田良平
東京帝国大学卒業。1901年文部総務長官、1904年貴族院議員、1907年京都帝国大学総長、1916年文部大臣、1929年枢密顧問官。次弟は一木喜徳郎。
  • 岡田 良平

    (おかだ りょうへい 号・恭堂)
    元治元(1864).5.4-昭和9(1934).3.23

    静岡県小笠郡倉真村岡田良一郎(淡山)の長男として出生。次弟は一木喜徳郎。明治20年東京帝国大学卒業。23年第一高等中学校教授。26年文部省視学官、文部省参事官。27年山口高等中学校長。33年文部省実業学務局長、万国衛生及び人口会議のためフランスヘ渡る。34年文部総務長官。37年貴族院議員。40年京都帝国大学総長。41年文部次官。大正5年文部大臣となり、臨時教育会議を起こし、多年懸案になっていた学制改革問題についての答申を実行して、義務教育の国庫負担制度の端緒を開く。12年東洋大学長。13年文部大臣。昭和4年枢密顧問官。教育行政に尽くす。社会教育の面では大日本報徳社社長、産業組合中央会の中心人物として、特に農村の社会教育問題に意を尽くした。

    大正10年-昭和8年根津育英会顧問。

山川健次郎

北条時敬

北条時敬
東京帝国大学卒業。1898年第四高等学校長、1913年東北帝国大学総長、1917年学習院長、臨時教育会議委員、1920年貴族院議員。
  • 北條 時敬

    (ほうじょう ときゆき 号・廓堂)
    安政5(1858).3.23-昭和4(1929).4.27

    金沢に北條條助の二男として出生。明治18年東京大学理学部数学科卒業。石川県専門学校教諭。21年第四高等中学校教諭。24年第一高等中学校教諭。29年山口高等学校長。31年第四高等学校長。35年広島高等師範学校長。41年万国道徳教育会議参加のため英国に渡る。大正2年東北帝国大学総長。6年学習院長、臨時教育会議委員。9年宮中顧問官。貴族院議員に勅選さる。若いときから禅を志して「廟堂」を授けられ、「生まれながらの禅者」とも云われた。また西田幾多郎、鈴木大拙、山本良吉(武蔵高等学校第三代校長)の師でもあった。

    大正10年-昭和3年根津育英会監事。

高等学校設立 構想の公表

新しい高校設立構想がいよいよ具体化し、根津がその構想を報道機関に発表したのは1921年5月10日、次いで同年7月、根津の寄付金約360万円を基本金として財団法人根津育英会の設立を申請し、同年9月許可となった。国家、それも大日本帝国時代の国家が特に定めた新学制が、一私人の意志と貢献によって、一私立学校として最初に実現することとなったのはまさに異例のことであった。
  • 朝日新聞記事「高等学校設立を目論んで」
    朝日新聞記事「高等学校設立を目論んで」 (右より正田、根津、一木、宮島、本間の諸氏)
  • 朝日新聞記事「富豪根津翁が一世一代の大奮発」
    朝日新聞記事「富豪根津翁が一世一代の大奮発」
  • 根津育英会設立認可書
    根津育英会設立許可書
  • 根津育英会設立認可書
    根津育英会設立認申請書(部分)