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今月の特集   旧制武蔵高等学校の日々 1
――今月からは旧制高校時代の学校生活、教室内外での授業、先生方、そして行事などをとりあげていきます。
生き生きと真剣に学ぶ生徒、凛としてかつ愛情あふれる教員(教授)の姿から
現在の武蔵の学びに通ずる原点を感じていただければ幸いです。

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1935年撮影。顕微鏡を用いた授業(7期生)。化学教室での撮影と思われる。創立当初から武蔵の教材、教具はきわめて充実していた。

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1935年撮影。旧校舎(現大学三号館)での授業(7期生)。この校舎は現存する武蔵の建造物としては最古であり、創立時から残る建物。当初は木造で計画されたが、途中で鉄筋コンクリートに変更され、関東大震災、さらには東日本大震災にも耐え抜いた。
 

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1931年撮影。理科教室で。 生徒一人ひとりに教育機器が行き渡るよう、顕微鏡もかなりの台数が購入されていた。 現在これらの顕微鏡のうち30点台あまりは保管保存され良好な状態を保っている。ガラス乾板から。

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1931年撮影。旧校舎(現大学三号館)教室で。好奇心と向学心に輝く少年たちがまぶしい。三理想の「自調自考」を象徴するような一枚だ。ガラス乾板から。

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撮影時期不詳。旧校舎(現大学三号館)と金工木工室の間での11期生。前列中央やや右に本をもつ宮沢喜一氏。 宮沢氏は後に大蔵官僚を経て政界に進み第78代内閣総理大臣を務めた。 ガラス乾板。

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1935年撮影。7期生の試験。旧校舎(現大学三号館)で。後方の板書はドイツ語のようだが試験とは関係ない。

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撮影時期不詳。横井徳治教授。「ヨコトン」の愛称で親しまれた先生は英語担当として学校創設間もない大正14年(1925)から昭和62年(1987)まで 62年間にわたって教鞭をとられた。「Senseの訳語四つ! 感覚・意識・判断力・意味」は横井先生の授業をうけた学生なら終生忘れないだろう。

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撮影時期不詳。藤村信次教授とオースチン小型自動車。 藤村先生は当時まだ珍しかった自家用車とオートバイを所有されていた。

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1941年撮影。当時、高校高学年は立派な成人だった。なんという誇りと自信に満ちた顔つきだろう。なおかつ若さによる奢りも才気走った青さも見えない。落ち着いた鋭い視線の先に自分自身や国の未来はどのように見えていたのだろうか。太平洋戦争まで1年あまりのころ。高橋浩(13期文)氏ほか3名。

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1929年8月撮影。創部まもない籠球部(RKM)。インターハイ初出場を記念して。 後列左から3人目が畑龍雄(3期)氏。畑氏は中心選手として活躍、卒業後は武蔵で数学の教鞭をとる傍ら篭球部のコーチを務めた。また教頭在職中の1960年のローマ五輪には 国際審判員として出場した。

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1933年撮影。籠球部の集合写真。6期生と7期生による。このティームがインターハイ初優勝を成し遂げた。この後もインターハイでは1954年、1956年、1957年に優勝、1955年に準優勝と輝かしい成績を収めることになる。

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1931年11月撮影。旧体育館前でサッカー(ア式蹴球)部の集合写真。 ユニフォームの「武高」の文字で旧制時代の写真であることがわかる。この6年後の1937年には蹴球部はインターハイで全国制覇をなしとげる。ガラス乾板。

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1937年1月に本郷の「江知勝」での 蹴球部インターハイ初優勝の祝勝会。原田享一先生はじめ3期生から12期生まで多くの部員が写っている。 後列に武蔵学園長を務める大田博太郎(4期)氏の姿もある(中央やや右、和装の男性の向かって左)。
 

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撮影時期不詳。体育祭。全力疾走のゴール。旧制武蔵高校をはじめとする七年制高等学校は、まさに疾風のごとく四半世紀を駆け抜けることになる。ガラス乾板。

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1944年撮影。上野の岡野栄泉堂での勤労動員時の集合写真。高等科1年生と引率の鬼頭英一教授。終戦1年前。生徒たちの顔はかぎりなく明るいが戦局は厳しく、本土空襲も始まっていた。岡野栄泉堂は和菓子の老舗だが勤労の内容は不明。

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1938年11月、中華民国南京市(当時)に赴任した卒業生より山本良吉校長宛の写真はがき。 差出人は小野茂良(3期理)氏。写っているのは同期の岩崎之隆氏。

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上記写真はがきの表面。山本校長は卒業生との交流にも熱心だった。写真は日本軍が南京市を占領した1年後。小野氏と岩崎氏は宣撫班として治療に従事していると書面にある。その9年前の1929年、岩崎氏は第3回外遊生としてアメリカ合衆国カリフォルニアに派遣されている。氏は後に医師となり活躍。 小野氏も医師となり皮膚科専門医として業績をのこした。

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1935年撮影。愛日寮の食事風景。寮は当初尋常科の愼獨寮のみだったが、1927年に高等科寮として「愛日」「双桂」の2寮が開かれた。愛日の名は大載礼記曽子立事編の「君子日ヲ愛(おしみ)以テ学ビ、時に及ビテ以テ行フ」から。双桂は法学の一木校長、理学の山川校長を2本の圭樹に見立て、また中国北宋の故事にも倣って生徒が文理それぞれに大成するこを願って名づけられた。

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1934年の入学試験。右端に講堂が、背後に購買部が見える。

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撮影時期不肖。軽井沢青山寮の前庭で卓球を行う生徒。 現在まで続く山上学校は、すでに開校初年度の7月に2週間の日程で軽井沢の夏期大学で開催されている。その後、長野県木崎湖、日光湯元などに会場をうつして開かれたが、昭和12年に青山寮が開設された。ガラス乾板。

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撮影時期不詳。百葉箱で観測する生徒。当時露場は旧校舎(現大学三号館)東隣にあった。 1942年1月からは気象庁東京管区気象台中新井観測所として位置づけられ、気象部員によって毎日観測された記録は中央気象台に送られた。観測は営々と続けられたが1977年からはロボット化され、アメダス練馬観測所となって自動計測・送信されるようになった。それでも長らく東京・練馬の天候。気温は武蔵から発信されていたが、近隣の住宅密集化、学園内の建物の増加などから正確なデータが得にくくなり、学園東門付近にあった観測設備は2012年末に石神井公園北側に移転した。
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