トップ
TOP

トップ 武蔵学園のあゆみ 武蔵学園記念室 記念室書庫 写真館写真館バックナンバー2015年6月

写真館バックナンバー2015年6月

2015年度バックナンバー
4-5月 6-7月 8月 9-10月 11-12月
2014年度バックナンバー
5月 6月 7月 8月
9月 10月 11月 1月
今月の特集   旧制武蔵高等学校の日々 5 山上学校・海浜学校 
  山上学校、海浜学校は旧制時代から現在まで続く伝統ある学校行事であり、貴重な野外プログラムです。山上学校は武蔵開校の1922年に、はやくも第1回が軽井沢の夏期大学で行われました。その後1937年には軽井沢青山寮が開設、1981年からは赤城青山寮で開催され現在にいたっています。
 海浜学校は開校3年後の1924年、内房岩井の府立四中の寮を借用して有志による参加で行われたのが第1回。1928年には鵜原寮が完成し、現在にいたっています。しかしながら、昨年秋の地質調査により鵜原寮をとりまく急峻な斜面が土砂崩落の危険性がきわめて高いことが判明し、鵜原寮は閉寮となっています。今夏は学芸大学の寮を借用して鵜原での海浜学校実施が決定していますが、来年以降の開催場所等については検討中です。

PK009-001s

1922年、第1回山上学校。軽井沢の夏期大学にて7月10日~23日の日程で生徒40名(希望者)、教師5名、賄方1名が参加。当初呼称は夏季学校であったが、2年後の海浜学校開設に伴い 山上学校となった。

GK009-045s

1924年、第3回山上学校。同年9月の教師会の記録に「軽井沢夏期学校に於て班は同一年級の者を以て編成したが、すべての点に於て年級の異なるものを以て編成するのが適当である(原文ママ)」「付添教員は今少し多きを可とする」といった振り返りがある。ガラス乾板。

GK009-047s

1924年、浅間山(2568m)山頂。同山は1738年の天明大噴火後は1928年まで大噴火はなく、とくに1923年~26年は平穏だった。とはいえ2500mを越す活火山の登山には熟練した指導者が必要である。教務日誌に付添教員として日本山岳会設立に尽力された山川黙講師(当時、後校長)の名前があることから、同講師がリーダーだったと推測される。ガラス乾板。

GK009-044s

1925年撮影。軽井沢での観察・スケッチ。 6月初旬の教務日誌には、「夏期学校の詳細計画は山川黙教授、鎌田都助教授、本間良助講師が立案する」との記述がある。ガラス乾板。

GK009-048s

撮影時期不明。山上学校での体操。軽井沢小中学校前での撮影と注釈にある。ガラス乾板。

PK009-011s

1926年、日光湯元板屋旅館で。6月14日の教師会記録に「本年、山上夏期学校は日光湯元に於て挙行することに定め、1年生を主とし2年生の希望者をも参加せしめる。3,4年生の希望者は選考の上許可」とある。湯元での山上学校は同館が火災修復のため使用不可だった1929年を除き、軽井沢青山寮開設前年の1936年まで続いた。裏面に 「大正15年日光湯元 付添 黒須、塚本、内田3先生」とある。

PK009-013s

1928年7月、日光湯元での山上学校。板屋旅館前での集合写真。教務日誌には「7月17日(火)、山上学校出発。生徒74名」とある。

PK009-015s

1928年、日光湯元で7期生の山上学校。食事の様子。

PK009-016s

1928年、日光湯元で7期生の山上学校。座学の様子。左端の先生が 誰なのかは不明。

PK009-028s

1930年、日光での山上学校。採集をする9期生と和田八重造専任講師(中央の白い帽子)。山上学校の開設には和田先生の進言によるところが大きい。

PK009-085s

1930年撮影、9期生の山上学校。屋外での洗濯。

PK009-044s

1933年、日光湯元で12期生の山上学校。飯盒炊爨の様子。

PK009-047s

1935年、日光湯元で14期生の山上学校。山本良吉校長による座学。 黒板に「尺貫法 メートルはダメ」と書かれている。

PK009-057s

1936年、日光湯元で15期生の山上学校。体操の様子。翌年には軽井沢に青山寮が完成し、日光湯元での山上学校はこの年が最後となった。

PK009-060s

1937年7月19日、16期生の山上学校。軽井沢青山寮前で 山本良吉校長を囲んで。裏面に「二五九七年七月十九日青山寮16期生が尋常科1年」 とある。青山寮は同年7月5日に竣工。教務日誌には「7月19日(月)、本日軽井沢に於て青山寮の開寮式を行う。校長列席」とある。

PK010-005s

1938年、17期生の山上学校。食事の風景。奥に塚本常雄教授、上野賢知教授、高橋泰教授が見える。

PK010-015s

1939年、18期生の山上学校。この年、文部省からの通牒により「夏期休暇は夏期鍛錬期間」と呼ばれるようになった。一方、教務日誌によれば、父兄が山上学校参観の際に携行する土産品(さし入れ)廃止の名目で参加父兄一同から1円50銭を集め、毎日高島屋より菓子を山上格学校に送ることとしたある。

PK010-020s

1939年、18期生の山上学校。生徒の背後に生徒の母親と思われる人びとが写っている。 当時の山上学校では保護者が視察に訪れることもたびたびあった。同年秋の教授会記録によれば「山上学校・・・事故もなく、日課に余裕もあり良好。父兄訪問の延べ人員は98名、宿泊者38名とある。
 

PK010-038s

1940年、19期生の山上学校。軽井沢青山寮での作業。この翌年、山上学校は文部省からの要求で途中中止となる。保護者宛の手紙には「拝啓、今般都合により夏期学校を中止することに相成候に付、現地にて荷物整理の後、19日午後、豫て御通知致置候通りの時刻に帰京致すことに決定候間及び御通知候」とある(17日に出発、19日帰京)。

PK009-082s

1942年、21期生山上学校。和田八重造専任講師の採集。前年途中帰京した山上学校だが42年と43年は鍛錬名目で短期間実施された。武蔵高等学校一覧昭和17年度版には「夏期学校は学科を授ける外に本校生徒たるに必要な意識を実生活を営む際に訓練するもので、学校内に於ける授業よりも更に重要な意義を持って居る」とある。しかし戦争により山上学校は1944年~48年にかけて中止される。
 

PK010-058s

撮影時期不詳、鵜原寮での海浜学校。座学。上野賢知教授の講義。海浜学校は1924年、千葉県岩井の府立第四中学校の水泳場を借りて尋常科2年の有志のために行ったのが最初。「三理想」具現化のための教育の一環との記述が、初期の「海浜学校要覧」にある。

PK010-059s

1931年7月、鵜原寮での海浜学校。寮付近での作業。海浜学校は1926年まで府立四中の寮で開催され、翌年は興津の興津館で行われたが、学校所有の寮の必要性が痛感された。そこで1928年7月16日、父兄の尽力により鵜原寮が竣工、翌日には開寮式が行われた。

PK010-062s

1934年撮影。鵜原寮における12期生の海浜学校。背後に「武蔵高」と看板の掛けられた小屋があるが、生徒はここに帽子等所持品を置いて水泳に出かけ、 戻ってからこの小屋で栄養補給のため支給される菓子などを食べた。
 

PK010-070s

1939年撮影。鵜原寮における17期生の海浜学校。余志寮前で。山上学校の「静」の教育に対し、海浜学校は「動」の教育であるとの考え方だった。身体を鍛えることで自己を高めるという思想が前面に押し出されていた。

PK010-071s

1939年、鵜原寮における17期生の海浜学校。寮の前で体操。

PK010-077s

1939年、鵜原寮における17期生の海浜学校。

PK010-078s

1939年、鵜原寮における17期生の海浜学校。 鵜原寮は1988年に改築されるまで、ながらく建築当初のままの姿を保っていた。

PK010-080s

1939年、鵜原寮における17期生の海浜学校。寮の裏の崖での作業。

PK029-013s

撮影時期不明、旧制時代の海浜学校。 「鵜原島遠足 自ラデ捕ヘタさざえヲ焼キツツアル所」

PK029-021s

撮影時期不明、旧制時代の海浜学校。 生徒を水泳の習熟度ごとにおよそ20名のグループに分け、先生、助教らの乗る舟三艘ほどで見守る光景は 90年あまりを経た今でも変わらない。
to-top