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今月の特集   旧制武蔵高等学校の日々 2
――日本最初の私立七年制高等学校として設立された旧制武蔵高等学校は、教育界の重鎮を校長に迎え、選りすぐりの教授陣、各界で活躍する理事、評議員、そして父母からの大きな風をうけて「一貫教育」という未知の海へ船出しました。高い志と期待、その一方で先駆者としての不安も抱きながら、次つぎと施設を充実させるとともに、武蔵ならではの独自の教育プログラムをつくりだしていきました。

GK008-019s

1927年10月6日撮影。生徒集会所(初代。現在の集会所は3代目)前での整地。右端は生徒とともに作業する内田泉之助教授。学び舎の環境を整えるのも武蔵の教育プログラムであった。

GK005-022s

撮影時期不明。英語担当だった C. Caiger専任講師夫妻。 Caiger 先生は昭和5年(1930)~昭和14年(1939)に在籍された。  ガラス乾板。

PK020-015s

1940年撮影。日光への民族文化部の旅行。15期~17期の生徒と石山乾二先生。 左端は大坪秀二元校長。大坪元校長は山岳部や太陽観測部、気象部などにも参加されていたが、こうした複数の部をまたいで幅広く活動する生徒は少なくなかった。
 

PK019-034s

1931年9月撮影。父兄会よりプールが寄贈され、大講堂において記念式典が執り行われた。 その直後のプール開き。縦25メートル、横10メートル。2基の飛び込み台直下の水深は3.36メートルあった。このプールは現在では取り壊されて大学7号館となり、内部に大学専用プールができている。また高中プールは体育館横に新設されている。

PK019-044s

剣道部の正式な発足は昭和3年(1928年)とされているが、それ以前にすでに同好会的な活動が始まっていた。 写真の撮影時期は不詳。剣道場「錬心館」は1927年に落成している。

PK020-003sv

1929年、小林春雄(4期)氏が掲示板に「本日夜間観測す。奮って来られよ」と掲げたのが 科学部の天体観測の萌芽にして太陽観測部の始まりだという。 写真は1930年、中庭での太陽観測部。2010年6月、60億キロ7年の旅を経て小惑星イトカワからサンプルを持ち帰った探査機「はやぶさ」のイオンエンジン開発者、國仲均教授(53期)は同部OB。

PK011-045s

1941年4月撮影。大講堂での入学(始業)式。大講堂は1928年、早稲田大学建築科を創設した佐藤功一氏の設計。天井まで続く高窓の垂直とキャットウォークの水平との対比が美しい。1階は尋常科・高等科の生徒全員が収容できる大きさであり、この写真は、ほぼ全校生徒が写っているといえる。

PK006-038s

撮影時期不詳。1939年または1940年の撮影。遠足であろうか。鉄道駅ホームの慎獨寮生。塚本常雄教授の姿が見える。 案内板に「砧方面」「渋谷三軒茶屋方面」とある状況から、1969年に廃止された東京急行電鉄玉川線(通称玉電。現在は一部が世田谷線として運行)の二子玉川園駅である可能性が高い。

PK019-026s

弓道部の技術レベルは当初から高かったが、1940年7月、 インターハイ初優勝を勝ちとる。その記念の部員集合写真。中央に森五郎先生の姿が見える。

PK038-024s

形象部。形象とは絵画、写真、彫刻などの総称であり、あまり人口に膾炙していないが 山本良吉校長が命名者とされている。部活動としては前述の芸術各分野に関して幅広く活動した。 写真は1936年、図画の金子保先生をアトリエに訪問した部員たち。

PK019-010s

撮影時期不詳。校庭で練習中の陸上競技部。跳躍しているのは小野勝次(2期)氏であることから、 1930年ごろの撮影と推測される。

PK011-028s

1944年6月26日撮影。同日、中島飛行機株式会社よりグライダー2機が寄贈された。その記念の写真と思われる。操縦席は菊井維正(21期)氏。グライダーは「雉1号」「雉2号」と命名された。その後、小野寺虎次郎教授が操縦訓練を受け、生徒たちを指導した。

GK010-036s

撮影時期不詳。校舎脇にある温室の側で。中央で寝そべる眼鏡の人物が動物学の 柳田友輔先生。ガラス乾板。

PK010-013s

1939年撮影。軽井沢青山寮での18期生の山上学校。乾布摩擦。

PK009-067s

1939年撮影。軽井沢青山寮での18期生の山上学校。山本良吉校長による座学。 当時の山上学校では一日に2時間の座学があり、そのうちの1時間が英語に充てられたという。 山本校長は本来は修身担当であるが、山上学校では英語の授業を担当した。
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